床屋の裏話

2010 / 5 / 10 , 23:26

アナーキーパンツ!

 毎朝6時45分頃 目を覚ます。惚けた頭で廊下を進みリビングで朝食をとる。しかし この朝は違っていた。目を覚まし廊下を進むと昨夜 廃棄するため置いたスピーカーを忘れていた。もうお気づきかと思うが その通りである。爪先を打つけ『っ痛ぇ〜』とおもいっきり叫ぶが小声である。あまりに痛くて声も出ないのである。『誰だ〜ここにスピーカー置いたのは!』しまった!俺か!

 

 

 両手で片足を押さえ片足で廊下をケンケンで進む。 いつも 開けぱなしのリビングのドアが ピョンと跳んだ私に向かってサッと閉まった。ドアと頭がアメリカンクラッカーしてしまった。グゥワ〜ンと目の前が揺れる 爪先は痛いは 頭は回るは最悪の朝である。 

 

 

 なんとかテーブルにつきコーヒーを一口すすると なんと言う事だろう!砂を口にしてしまったかと間違える程であった。口の中はコーヒーの粉でいっぱいになっていた。文句を言おうと思った瞬間 女房が『ごめん!コーヒードリップしか無くてお湯入れすぎちゃった。こぼれちゃったんで床を拭いてたのよ〜それで ドアを閉めたらあなたと鉢合わせしたってわけ!ごめんね!』と言われ 文句を言う気もあせた。それよか今日は何か変だ!一日 冷静に過ごそうと自分に言い聞かせるのであった。 

 

 

7時10分過ぎ ようやく朝食もすみ 洗面台に向かう。鏡の前にたち姿を見る 頭髪が温泉マークの様に毛が三本浮いているって感じである。この日は どうした事か笑えて来た。『ぅわははは〜アハハハ〜!おもしれぇ〜!』女房に見てこっと言うと 女房が『いつもと同じよ どこが面白いの?』っへ!?そうか同じか! 

 

 

7時40分 店に自転車で向かう。マイペースでルンルン気分で車輪を廻す。五月 遊歩道の脇にはツツジが奇麗に咲いて春を感じさせてくれる。鼻歌なんか口ずさんで さっき起きた不幸なんて忘れ店に着く。店支度もすみ 一息入れると

もようしてきた。便座に座りふっと見ると なんと降ろしたばかりのパンツに穴が開いているじゃあ〜りませんか!うわ〜最悪 今日一日穴空きパンツかよ〜!

2010 / 4 / 12 , 18:48

上を向いて歩こう!

 七ブラと言う言葉が、静岡の街で まだ好く使われていた時代 昭和40年初頭である。 首都 東京では 高度成長 真っ盛り これに漏れず静岡も景気はうなぎ上りであった。市内七間町が 昼夜 賑わいを見せていた。東京銀座の銀ブラにあやかり 七ブラ 銀座とは比べ物にはならぬが っま!田舎町の中では一番の繁華街 そう言いたくなるのも解らなくはない。今では 懐かし言葉の一つである。   

 

 そんな40年代 自分が小学校入学の春だったと 霞がかった記憶から思い出す。中田一丁目に親父が開業して10年。 まだ家の前には水路が通っており裏の通りには桜の大木が一本 近所には小川があちらこちらに流れていた。 

 

 お店の洗髪は瞬間湯沸かし器であったが  店裏側の居住水回りは 薪を使っていた。弟には記憶がないだろう 自分は薪割り 炊事 風呂炊きの薪くみを手伝った事を憶えている。まさに三丁目の夕日ではないが 一丁目の夕日である。この頃 良く口ずさんでいたのが『上を向いて歩こう』であった。子供ながら辛い時はよく唄っていた。この唄も流れ始めて数年が経っているのにテレビでも放送せれていたと記憶する。

 

 

   南幹線通称カネボウ通りも 舗装されておらず三輪トラックが砂埃をあげ走りまくっていた。あの当時は子供があふれガキ大将について遊ぶのが常である。僕ら子供同士は 信号機もない幹線道路をトラックが走り去った後 赤土の煙幕を体中にあび横断するのである。10メートルもない道路ではあるが 子供である自分には一つの冒険のようだった。渡り終えた向こうには駅南銀座という僕らには最高の商店街が広がっていた。映画館 玩具や 駄菓子屋 本屋 まるで夢の街である。 セピアカラーの写真を見る様に あの商店一店一店が 浮かび上がる。  

  

 

 高度成長時代と言えども 子供である私は 食べ物には飢えていた。あの頃は家族 職人と十数人が一つ屋根の下でくらしていたので 食事で満腹感は得られなかった。 親父が 七ブラに出かけるのを待ちこがれていた。 小料理屋には何回か連れて行ってもらい味をしめていた。子供でも あの串焼きと酒燗の匂いはそそるものがある。

 

   忘れもしない春の夜、親父が 3歳になった弟と自分を連れいつもの様にでかけた。おいしい物にありつけると 喜んで付いて出たが その夜は 食べ終わった後 タクシーで兄弟二人 家の前で降ろされた。 残された二人であったが、家の前 誰か 鍵を開けてくれるだろうと ドアの前で 大声をあげた!『帰ったよ〜開けて〜!』数回は 叫んだであろう!しかし 何の反応もない 家は 人の気配もなく電球の光も零れてはいない 誰もいないと気ずく。この時点で 少しへこんだが 鍵の置き場所は知っていたので 月明かりで探る。なんども探ったが、 無い。ここで 完全にへこんだ!  

 

少し前から弟が泣き出していた。  我慢していた自分も 寂しさが込み上げ涙があふれた。兄貴ぶり 泣き顔を弟に見せたくないので天を仰いだ。夜空は明るく いつしか「上を向いて歩こう』を口ずさんでいた。三十分位であったが 母親 職人さんと家に帰って来た。理容講習会で全員で出かけていたのである。 

 その時の寂しさと裏通りの月明かりに照らされた桜が今も心に残る。    

 

駅南銀座も店が様変わりし 幹線道路も新しくなり 親父も逝ってしまったが 今年の春も裏の桜は満開に花を咲かせて いる。何十年 中田を見て来たんだろう!pap_0011.JPG

 

 

 

sora.jpg 私の住まいは静岡市の駅南側に立地している。静岡の街は国道一号線、東海道線が 中央で区分している。私が学生であった頃、駅南は今ほど住宅が 立ち並んではいなかった。高い建築物は数えるほどで 空は青く遥かに遠く 白い雲がポッカリと浮かんでいる風景が常であった。    

 高校三年の週末、部活のメンバーであるアコト、ショー、ギル、トミー 部活は違ったがカズ、ツバそのうちの一人が 『今晩、盛り上がるぞ!』の一声で 必ず自分の部屋に溜まる事となっていた。 当時 自分の部屋は母屋とは別棟で理容店の上にあり高校生には絶好の溜まり場であった!あの頃は 酒もタバコも親の使いであれば 子供にも 手に入れるには容易い事で今とは環境が違っていた。   

 

  学生の小遣いで買える酒などたかが知れている。質より量で安ウィスキー でハイボール コークハイがお決まりである。出来合いのカクテルもよく買っていた。しかし学生の身分であり近所の酒屋では面が割れているので 知らぬ店で買う事で安心感を得ていた。    部屋には後輩も含め5〜6人は常時  集まって馬鹿騒ぎをし 多い時には十数人という事もあった。あの頃の大人は今より大らかで言葉は厳しかったが精神的には優しかったと思う。この時代で 同じ事をしていたら どえらい騒ぎになること間違いない。    

 

  夜、仲間が部屋に集まるとターンテーブルにはボズスキャッグス イーグルスあたりが針を響かせていた。イーグルス ホテルキャリフォルニアにてL.A.の現実を唄いウエストコーストサウンドも 終盤を感じさせていた。 高三の夏休みが終わる頃には仲間たちも 重苦しい空気が蔓延していたと思う。各自 進む道を考えそれに向かう準備にかかる時期であった。  

 

 週末は 溜まり場で相変わらず盛り上がっている そんな或る日 ショーが悪酔いをしたのである。誰に絡んだか忘れてしまったが、狭い部屋で数人もいるのに 掴み合いの喧嘩をした。テレビ番組の貫太郎一家じゃないが つまみ 飲み物は倒れるは!飛び散るは! 二人以外は廊下になだれ込み 悪酔いをしているショーは起つのもままならない状態 あっという間に弾き倒され 倒れたかと思うと ぐぁ〜ぐあ〜とイビキをかいていた。温厚なショーも この時期 色んな不安などストレスが有ったんだろう!と後 仲間に亀裂が入る事などあり得なかった。     

 

 年が変わると高校時代ともお別れの季節があっという間にやってくる。私たち仲間は三年間 最高の思い出になった。そして仲間たちは 一人づつ上京して行った。私も これに漏れず上京したが当時の東京は鉛色の空 孤立独立していく仲間や自分はホテル キャリフォルニアの歌詞ようだった。しかし 高校まで過ごしたシズオカ サウスタウンの思い出は ウエストコーストサウンドの様に見渡す限り青い空が心一杯に広がっていた。    

 

  あれから早いもので三十数年が経ち 今は自分たちの子供が 独り立ちする時代となった。東京も奇麗な空を取り戻し始めている。静岡も これだけ時が過ぎれば あの頃の様にはいかぬが 自分を含め仲間たちも変わらず青い空を追い求めている。 

2010 / 2 / 9 , 17:22

チョビ髭

imgp5191.JPG 髭を 延ばし始めて数年というとこだろうか!自分が且つていろいろな髭を見てきた中でも 祖父の髭が強烈な印象に残るものであった。まさに加藤茶のハゲ 丸めがね チョビ髭というで風貌であったからである。

 

 自分が中学生の頃、 祖父が なぜその風貌だったのか想定できた。黒澤明監督の『生きる』主演の志村喬であった。リバイバルの映画ポスターを見て 『じいさんだ!』と言葉にでてしまったのを覚えている。祖父は晩年、『歩み』という本を自己出版したが、題名を決めるとき『生きる』と迷ったそうだ!

その祖父の職業は教師であった。明治生れで教師、当然 家族の中での威厳 、プライドは今では考えられぬモノである。自分が小学校低学年までは同居していたので それは怖い存在であった。そのプライドを足下から崩れ落ちる出来事が起きたのである。

 

 祖父は若い頃から猟や釣りを楽しんでいた。ある日、自分の叔父二人と祖父で用宗へと釣りに出かけた。鱚、グチをお目当てに投げ釣りである。三人 意気揚々 仕掛けをセットし ウネウネと動く青イソメを針につけ 習字の文鎮より若干 重い鉛の錘りを竿からでる糸の先端に結びつける。しっかりと両手で支えた竿、仕掛けと錘りがブラブラと竿の先端から垂れる糸と共に振り子の様に宙を舞う。 重量が掛かった穂先を背中にまわし 『 エイッヤ!』と柔道の一本背負いのように竿を振り切る!矢の様に海のかなたへと仕掛けは飛んで行き『ポチャン』っと海面から沈んで行く。

 

この日も叔父二人は 手慣れた仕事のように同じ手順で釣りをしていた。仕掛けを投げ、糸がなじむと竿を堤防に穂先を少し海側に出るように置きアタリを待つのである。  祖父は学生時代 砲丸投げ県大会優勝者 剣道三段 かなり釣りにも自信家であったと思う 。

 

やはり息子より遠くに投げる事が 威厳をたもつのである。生きの良い餌がついた仕掛けを渾身の力で竿を振り切る祖父!その時だった!叔父たちの視線から祖父が竿と共に消えた。二人は一瞬、何も考える余地はなかった。 『ドボン』という鈍い音が高さ3〜4メートルはあろうかという堤防の下から聞こえた。叔父らは顔を見合わせ水面を覗くと 哀れにも水面に顔を出した祖父が、助けを求めていた。この一瞬に父親の威厳 教師のプライドも少し用宗の海に流れたんじゃないかと思う。

 

以降 この当時には同居はしていなかったが、祖父と会うたびに優しくなっていたと感じていた。テレビではドリフターズの加藤ちゃんが、全盛期であった! この時期に祖父は、自慢のチョビ髭を剃り落としたのであった。 子供ながらも 日本の新しい時代を感じていたと思う。

 

2009 / 12 / 28 , 14:44

今年もあと僅か…

今年もあと僅かになりましたが、皆様如何お過しでしょうか?

先日発売したBoss&TheWailersのアルバムですが、お陰さまで売れ行きは好調です。お買い上げ下さった皆様!有難う御座います!

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ca341250.JPG ←昨夜、すみや本店の特設ブースです。。。小心者の私は写真を撮ってすぐさま退散…(汗;) すみやサウンドキッチンのW様。有難うございます。。。(涙;)

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その前日は、スタジオパークサイドフレンズの忘年会にお邪魔してきました。今年もお店は清水区に在るベアーズバーhttp://www.at-s.com/bin/yell/yell0020.asp?id=C352362706でやったのですが、今回も、ただ飲むだけでは終わりません。。。プレス・オンの演奏を聞くのを楽しみにしてたんですが、床屋兄弟が演奏するまでやんないよ~(*ゝ*;)なんてギターMさんが言うモンですから…以前一緒にやって頂いたHさんにボーカルを頼んでWhat’sGoin’On~What A Diff’rence A Day Makes を演奏させていただきました♪

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その後はプレス・オンの出番!いつもよりラフな演奏でしたが、プレス・オンはいつ聞いてもサイコー(^∀^)♪ ライブ音源をこのブログで、いつかは披露したいなぁ~♪

そして皆さんベロベロになるまで飲んで歌って演奏♪ いつものパートを離れてベーシストKさんがドラム叩いて…お馴染みドラムの師匠はベース!ベアーズバーの店主クマちゃんもギター抱えてジャズファンク!Kさんのドラムも師匠のベースもカッチョエエ~!!

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↑パートをシャフルして、ご機嫌プレイのKさん&ベース弾いてもファンキージャズ♪Y師匠!イイ顔してます!!

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↑お兄ィのヨッパラレェ~プレイ♪

当日のライブ音源は私の携帯電話に録画させていただきましたよ~ん♪

こんな感じで夜も更けて、帰りにラーメン食べて無事帰宅!運転手のSさん有難う!いつも酔っ払いのお世話で、ゴメンね!(*ゝ*;)

今年も皆様にはいろいろとお世話になりました。あと少しで年も替わりますが風邪などひかぬ様お体に気をつけて下さいね。。。